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『二道の心情』

すでに何度か書かせてもらいましたが、武士道とは、武を持って命を賭けて主君に仕えるサムライのバイブルだったのです。しかし、明治維新に封建時代が終わり、サムライと言う身分も消えました。かろうじて軍人と言う職業が “武を持って命を賭け国に仕える”と言うサムライと通じるものとして残ったのですが、それも昭和の敗戦で国は戦争も軍隊も放棄、消滅してしまいました。

サムライが軍人として命をつないだのとは少しことなりなすが、明治の維新後に、ある意味武士道を引き継いだ職業に組織的に一家をなした仁侠の徒がいました。縄張りを持ち、団体で周辺の住民の治安を守りつつ祭事などの市民の娯楽や博打まで取り仕切る武装した自警団のような存在でした。
従ってその集団には独自の厳しい掟としての戒律があり、武士道に似た仁義を重んじる仁侠道だったのです。無頼の徒だからこそ必要以上に厳しい規律や秩序がなければならなかったのです。

その集団を支える為の収入源はサムライとも軍人とも違い、年貢(税金)からでもなく雇い主からの報酬でもない自力で稼がねばならないものでした。その多くは取り仕切る縄張り内の祭事や博打から上がる“みかじめ料”です。
処場代や寺銭がそれで、今で言うロイヤリティーに同じです。
このように一家を構えた侠客の勢力たるやかなりのものだったでしょう。
上がりの良い縄張りであれば尚更のことです。当然その反対勢力がそれに目を付け侵略の闘争に発展するわけです。勢力を保ち発展するには経済力。それは今も昔も変わりません。それはお互い命懸けでした。しかし、周囲には迷惑を決してかけないという掟に守られていたのです。掟を守らない者は粛清され結局はどこかでのたれ死にする運命だったのです。

人間を動物に例えることに少し気が引けますが、サムライも侠客も武装された猛犬です。片や飼い犬、餌は主人から与えられますが一方は野良犬、餌は自給自足です。両方ともに桶のたがである掟が外れればただの狂犬。恐ろしい存在なのです。サムライのバイブルが武士道であり、侠客のそれは仁侠道でした。

そして大正から昭和に移り、戦後は伝統のあるヤクザ、侠客は減少し、愚連隊と言う血気盛んで敗戦に荒んだ兵隊帰りや、町の与太者(正業に就かない素行の悪い者)が徒党を組み、戦後の混乱に乗じ暴れ回りました。当然その中で正統派の侠客は時代に遅れ陰をひそめ、その筋の人間の多くは愚連隊からヤクザに変貌して行きます。しかしその愚連隊にも弱きを助け強きを挫くと言う日本人特有の正義感があり、組織が出来上がり落ち着いた頃には伝統派の傘下にはいり、仁侠の道を目指した者もいたと言います。

しかし、世の中も落ち着きを取り戻し、文化文明も進歩する中、開拓されて行く野山に“獣”の棲む場所が消えて行くように町の“獣-ヤクザ”も、まして侠客の棲む場所は今の娑婆(この世、俗世界)にはなくなってしまったのです。武士道や仁侠道の終焉なのか、または衣替(ころもがえ)えの時期なのかも知れません。

日本国が戦争を放棄し。軍隊も認めない今、自衛隊は防衛のみを条件に存在します。ならば武士道も仁侠道も武装は放棄し、個人個人で精神だけを残す事は出来ないのだろうか。そんな夢を模索します。

政治、経済や文化芸能、スポーツの分野にも二道の心を持って臨んでおられる方々を見受けた時、その都度喜びを感じます。まだ日本の文化的思想は絶えてない。当然僕がこのような思いを述べる以前に思想を表看板にされている団体の存在は承知しております。されど僕個人の印象とするなら政治を度外視した
主義主張であれば徒党を組んだ印象を一般人に与える必要はなく、自分の好む
道を独歩するだけで良いではありませんか。もし理解者が加わればそれも拒まず、嬉しく受けとめ他人への押し付けや威嚇的印象はこの時代にそぐわないやり方だと思います。二道には多くの共通点がありますが、異なるのは武士道の印象は、誠の正義。仁侠道はあくまでも行儀の良いならず者の印象から逃れられないところがあります。しかしその掟や戒律の多くは一般人にも適応すべき行儀作法でもあるのです。

仁侠道の基になっている礼の一つに:_自分たちは社会に必要のないならず者だと言う控え目なところが要でしたが、一般人はその引け目は無用と言うことになります。僕個人の事を言わせていただけば、武術家であることが武装と取られがちですが、武力は世間に通用するものではありません。それ以上の現代の武装とは経済力だと思います。財力を支えにした権力者の横暴を押さえた
武士道、それに抗う仁侠道。どちらも格好良く感じます。シャーウッドの森で頑張った彼のロビンフッドとその仲間も、言わば男伊達てと言う点で同志です。

幕末の一こまに、清水港の次郎長が登場します。官軍に押された徳川軍が清水沖の海戦で大敗し、その屍を清水沖にさらし、その為漁師は海で漁も出来ず、その屍を片ずけることも出来ませんでした。何故ならば、賊軍の兵だからです。それを見かねた侠客の次郎長が子分を動員し、その屍の始末をしたのです。するとそれをみとがめた官軍が次郎長を捕えたのです。
その時次郎長少しも騒がず『世直しを題目の官軍がまっとうに働く漁師の邪魔をするのか。官軍であろうが賊軍であろうが死ニャ〜誰もが仏さまジャ〜ネ〜ンカイ』時の権力に真っ向から仁侠道でぶつかられれば官軍も引かぬ訳には行きませんでした。

そんな事、男は出来ない。男足るものそれは譲れない。それを怠れば男が廃る。
そんな男伊達を誇れる機会が現代にあるのでしょうか。
例えそんな機会はすでに無く、時の流れに遅れるても男を守り貫く道は捨てる訳には行きません。

男である事を誇りに出来る生き方は武士道、仁侠道に関係なくいつの時代でも無くなる筈はありません。守り続ける価値あるのもと信じます。


2009年正月



 
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