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『空手との出会いと生い立ち』

僕が空手道に魅せられたのは”大山倍達”と言う空手家に巡り会えたからです。
あの方がまだ30代に入るか、その少し前の頃でした。
その頃の格闘技界では取り分けお相撲さんや柔道家は特別な存在でした。空手は特殊な武道でしたがお相撲さん出身の力道山によってカラテ.チョップとして空手は一般に知られて行きました。同時期に“牛殺しの大山”なる大山倍達、後の極真会館総裁も世に知られて行きました。
当時の武術家や挌闘家は男の子のヒーローであり憧れの的です。
戦後間もない頃でもあり、男が男である事の意義を尊んだ時代に強い事は先ず尊敬に値したのです。

公民館が空いていれば畳敷きであるゆえ男の子達の挌闘場になり、道路では
白ボクかロウ石で土俵を描いてのお相撲です。投げられれば下は道路で、擦り傷打ち身は絶えませんでした。
しかし、一人っ子で大切に育てられておりました僕のその頃は怪我をしても親に告げることはありません。正直に話せば理由はともかく親は大袈裟にする事が分っていたからです。”転んだ”で通しました。今でも小柄ですが当時はその上細く、挌闘には全く不向きな体型だったのです。他の子のように強いお兄ちゃんや兄弟がいる訳でもなく、一人男の子として仲間入りすることに必至だったのです。
男の子として泣けない、弱音は吐けない、ついて行くだけで大変でした。
相撲では常に押されまくるので、下がりなら掛ける外無双、土俵際で堪え、
機を見て投げるうっちゃりをマスターし、柔道では立ち技では力負けするので関節技やしめ技を主にした寝技で勝負しました。講道館と言うあだなを貰うほどになりましたが、親はそれを信じようとはしませんでした。又、弘毅の武勇伝が始ったと笑われたものです。そんな折りに出会ったのが大山倍達と言う空手家です。その肉体は筋肉に鎧われ、拳は3ポンドハンマー以上に力強く、刀のように鋭く輝いて見えました。5円玉10円玉が掌の中で曲がって行くのを見守る僕の目はきっと燃えていたはずです。
当然の成り行きで、即その場で『僕に空手を教えて下さい。強くなりたいのです』と打ち明けましたが、それを受けた大山さんは『強くなるなら世界一になるしかない。世界一を目指すのは大変なことです。それより勉強をし、家を継ぎ立派に強い男を使うような人間になりなさい』と言われたのです。親からすれば嬉しい助言だったでしょう。強くなりたい僕には失望的な言葉でした。その頃の僕の価値観には偉く立派な有力者になるよりも強い男になることこそ誉れだったのです。

そうこうし、成長する中で目に見える強さとそうでない種類の強さにも触れて行きながら感じたことがありました。ある夏祭りの夜、大人に連れられ出かけた先で酒に酔った男達にからまれたのです。僕の連れの男は見るからに気後れし、戸惑う様子が如何にも頼り無く感じました。丁度そこに通りかかった家で働いている女性が、○○さん、ここで何してるの。坊〜やちゃんを連れて遅くなると呵られるよ。と言いつつ僕の手を取り歩きだしたのです。酔っ払いの男達はそれを見送るだけでした。僕は『チエヤすごいね。怖くないの』と聞きますと『女に暴力を振う男はいませんから』と言うのです。男が男で、女が女だった時代なのでしょう。極まりの悪い思いをしたのは男らしくなかった○○さんだけです。力ではない強さの発見でした。しかし、チエヤも女性としては肝の座った人だったように思います。年は19才くらいだったと覚えています。
腕力を上回る胆力を認識した瞬間でした。

されど、いくつになっても空手家大山倍達への憧れは強くなれども薄れることはありませんでした。その後16才になると間もなく他流の所謂伝統派空手に入門することとなります。修行を続けるほどに大山さんから受けた空手への印象との食い違いが起きてきたのです。されど空手への憧れが消えた訳ではなく、キット続ける内に何かが見えて来るはずと信じ、修行に励みました。ところがいつ迄たっても燃える思いは起らないのです。
そんな折り、年頃でもあり様々な誘惑に目が行かないはずもなく、町に出ての遊びに没頭して行きます。渋谷新宿周辺の繁華街ではそこそこの顔となりそれなりの不良少年になっておりました。不良となれば喧嘩は付き物です。
しかし体格は一向に変わらず小柄のままでしたが、喧嘩でボコボコにされた
経験は一度もなかったのです。いつの間にか手下も増えて行き増々遊びに拍車がかかります。その頃映画館では東映の時代劇のブームが去り日活の石原裕次郎がまた男達の憧れでした。不良イコール悪餓鬼ではなく、裕次郎は家庭はしっかりとし、生まれも通う学校もれっきとした慶応義塾でした。不良でありつつ坊ちゃんと言うステータスが出来上がって来たのです。僕の親も遊びがその枠をはみださない限りその行状を黙認しておりました。そんな時期がしばらく続きましたが、少し飽きが来ていた矢先、留学の話しを親から持ち込まれこれは面白そうと乗ったのです。親もそろそろ潮時と感じていたのでしょう。行きたかったのはアメリカでしたがコネの関係上ドイツとなったのです。
しかし、学校は何処も一緒でつまらない所です。それはドイツも例外ではありませんでした。その上ドイツ語なんて親しみもなく全くのチンプンカンプン。
マスターするだけで時間を浪費すると言う独断で、早速ワーゲンを購入し即
ヨーロッパの好きな都市を巡る計画に急遽変更。当然親には内緒です。好き自由に振るまい、結果親から帰国の指示を受けるはめに成ります。ヨーロッパの一人旅では様々な事に遭遇しました。学校で3年や5年で学べること以上に危うくも楽しくも有意義に過ごせた時期でした。その間もつたない空手ではありましたが何度も危うい場面でそれに救われたのです。

そのように国内外での青春時代を経て終始自分のCore(核)となったのは教育ではお茶の水の文化学院と学院を創設された西村伊作院長先生であり武道では極真会館総裁大山倍達氏だったのです。残念ながら大山総裁から直にご指導を賜る機会はとうとう巡って来なかった訳ですが、だからこそ氏に向けた憧れも空手への夢もいまだに消える事なく残り続けているのかも知れません。
今でも灰になれず燃え残っているのです。


2008年 暮れ



 
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