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『 僕の宮仕えの方法 』

『すまじきものは宮仕え』、現代の若者には聞き慣れない言葉かも知れません。意味はと言いますと人や組織に使われ、頭を押さえられ気苦労の絶えない立場を言い、出来ることならしたくないと思う気持ちです。そこで常日頃僕が念頭に置く『宮仕えの方法』を書いて見ました。これは宮仕えに武士道精神を持って臨む例え話です。

宮仕えとか勤め方の例とすると極端ですが、猟犬の訓練にボール遊びがあります。主(訓練士)がボールを投げますと犬は本能的に主が投げたボールを脇目も振らず一目散に追い、それが水の中であろうが後先考えず飛び込み、追った対象物を捕えると夢中で泳ぎ、主のもとへ持ち帰り来ます。その真剣な姿は感動的です。

所が犬によっては持ち帰ったボールを放さず逃げ回るのもいます。せっかく捕まえたものを放したくない気持ちは理解しながらも『それはお前のボールじゃないんだよ。仕事を果たすならばボールを返しなさい』と教えるだけです。

犬にとっても努力して手に入れた物には人間同様執着が起こって然るべきです。

されど、それがルールである以上、猟犬と言えども私欲も執着心も目的の為には捨てなくてはならない宮仕えの教えです。

この状況を人に例えると顰蹙(ひんしゅく)を買いますが、猟犬の訓練士を上司や組織に見立て、猟犬を働く者としますと判り易い例ではないでしょうか。

上記は一般的、会社員を対象としました譬え話ですが、リーダーや長のような責任者を対象とした例で僕が良く引用しますものに黒沢明監督の“影武者”が頭に浮かびます。甲斐の国の主である武田信玄が急逝の折、武田家は“影武者”を立てその死をしばらくの間隠したのです。百姓の中に信玄公に大変良く似た者が見つかり早速連れて来て“影武者”としての教育を施しました。始めはオッカナビックリだった爺さんも日が経つにつれ実に堂々とし、品格さえ感じさせる迄の信玄公になって行くのです。されどいくら本物に似てはいても“影武者”は影武者。信玄公の死を公表する迄の努めだったのですが、それ以後も信玄公から抜け出せず、嘆きながらに武田家の衰退を見守るのです。その姿は滑稽でもあり勘違いへの同情や悲哀も混じる物悲しいお話です。そしてこの物語から僕の受けたメッセージは、宮仕えとはすべからく己が“影武者”である事を自覚し、帰する所 “滅私奉公”を知ることこそ自己の幸せに通じる理念と思うようにして来ました。但し僕の滅私奉公と言う意味は主に“滅欲”“滅念”を指します。

己を知り、分を弁え道を選べば危うい事にはならないと言う信念です。

僕は人生において歩む道を二本採りました。一つに武士道とは君に仕え奉るを本分としますが、されど自分を捨て否定する事では決してありません。

そこで個人を自由に解放する場所として仕える道と平行して武術を選び、道場と言う聖域を設け心に余裕を与えたことにより宮仕えを全う出来たと思っております。黒沢監督の“影武者”の悲哀もそれが故に経験せずに済んだとも思います。もし、奉公人の道で己を捨て、仕事一途に賭けたなら諸々の執着を断ち切れたでしょうか。

もしかしたら獲物に執着する猟犬になっていたかも知れません。軽い表現をするならば人生において宮仕え以外の道を持ち、遊び(踏み代、余裕、プレー)を大切にすることこそ、ひいては宮仕えも不惑で全う出来るのだ。とも言えます。人間は如何にきれいごとを言っても自分を滅することは本能的に難しく、捧げる理由もその動機となるコンペンセーション(Compensation=代償)が必要なのです。表面に出してはならない真理です。されど、義とか信義も突き詰めれば何らかの代償に支えられていることを知らねばなりません。

この世に唯一無償の行為が有るとするならば、親が子に持つ思いだけではないでしょうか。

更に、We only live once.人生は一度切り。リセットは叶わず。だからこそ悔いの残らない自分独自の世界も持つべきなのです。それが何であっても必ず心の支えになる筈です。それこそ大義ではないでしょうか。

2009年6月13日


 

 
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