葉隠流 宗家葉隠塾空手道葉隠塾

葉隠塾 道場案内
  道場訓
理念
歴史
選手紹介
動画
練習、スケジュール、料金
Joining Our KARATE school
お知らせと広報
塾長紹介
  塾長紹介
武士道
出版本
コラム
空手道教範と思想
一門会
  一門会




『武道は精神美学』

武道には色々な見方があります。例えば剣道ですが、竹刀競技だけではなく真剣や木刀を用いる居合道もあり、抜刀術など型と試斬の稽古に励む会派もあります。組み技の代表は講道館柔道ですが、既成のルールでは飽き足らず旧柔術に戻り、極め、締め、関節技や当て身などを行う組み打ち系も存在します。

永いこと空手道は当てない事を前提に練習を重ねて来ました。今なお伝統派はそれを守り続けて居ります。その空手界にあって極真会館の大山総裁は自流の組手試合に当て(フルコンタクト)を採用したのです。当時としてそれは革新的な試みでした。然し、フルコンタクトとは言え頭部への手技、拳による攻撃は禁止されました。手技、拳による頭部への攻撃を封じた副産物として極真の蹴り技は独特なタイミングとフォームを生み出したように思います。それは間合の問題から伝統派とも異なり、かと言えムエタイやキックとも異なるものでした。

手技は足技より器用に使いこなせる為、拳で頭部を攻撃した方が相手を倒し易いわけで、勝負優先であれば柔軟性や上達に時間がかかる難しい蹴り技の練習よりも手技の方がより効率的であることは確です。 しかし、伝統とは効率を考える以上に地味な基本、型、組手の修練を繰り返し永い時間をかけ身に付けて行くことなのです。だから一世紀に渡り絶対的な信念を積み重ね、守り抜いた伝統派の技には今も目をみはるものが有るのです。当てない、留める。だから実戦的ではないのでしょうか。そうは思えません。当てないし留めるから部位鍛練や試割りは無用か、それも違います。剣道が真剣を使って試斬するのと同様で、斬れば斬れ、当てれば破壊する威力の裏付けの為です。

フルコンタクト空手の元祖である極真会館の大山総裁が現行のフルコンルールを変えずに維持し、現、松井館長はそれをそのままに引き継ぎ守っております。しかし顔面当てを否定したり、奨励するものでもありません。極真の選手の中にはプロの試合にも出場し、異種挌闘技にも挑戦している事実があります。とは言えその様式を極真会館の基本や試合に組み込むことはしていないのです。武道と言う基本的意義とは先ず精神性であり、そのありかたも問題になります。流派も伝統や歴史を重ねる程にAmateurism(アマチュアリズム=精神性思想)が重んぜられて来るのです。

答は武道や武術をどう捉えるかではないでしょうか。剣道で言えば戦国時代、または幕末期ならば別ですが、いくら試斬の練習を重ねても現代で人を斬る機会はまずあり得ません。真剣を使い実戦に近い稽古から剣の真髄と胆力を練ることが目的で、人間を一刀両断する為ではないのです。柔道も同じで、実戦用に錬磨された柔術から危険性を出来る限りはぶいて体育として一般に普及させる目的で講道館柔道のスポーツ化が進められたのです。では、スポーツ化したと言はれる講道館柔道はもはや実戦に向かない競技用スポーツなのでしょうか。それも違います。最近では色々なプロ挌闘技の試合形式があります。その舞台で堂々と活躍している柔道選手が今も柔道がプロ挌闘技に通用する証明をしています。その上尚、選手達は武術家としての誇りも持っています。

前の項で上げましたように、やはり昔、極真会館では厳しい方向に技術改革が進められました。その理由として大山総裁は伝統派空手の一部に見えたあまりにも実戦性を無視し、Fantasy (ファンタジー=精神性の強い希望的幻想)の世界に入り込んでしまった空手への忠告だけにとどまらず、極真空手の実戦性を強調されていたようにも思えます。頭部への手技、拳による攻撃だけは禁止したのも競技者のリスクを最小限に抑え、その上空手の実戦性も失わない事を前提としたルールを作り上げたのです。中でも試合へフルコン.ルール導入はかなりのインパクトがありました。然し、大山総裁の実戦性を称えつつもアマチュアリズムを守る努力がそこにもうかがえます。伝統的に寸留を採用し続けた空手に当てを導入し、そのうえ頭部への拳の攻撃までは必要なしと判断されたのでしょう。然しそれでも極真空手の実戦性は我々だけではなく多くの空手ファンを魅了して来ました。アマチュアリズムの見地からするならば、それ以上はプロ格闘家の分野と言う判断になるでしょう。

武道による心身の鍛練は真剣を研ぎながらも鞘に納めて抜刀しないと言う精神です。良くフルコンルールに馴れた者はキックや異種格闘技には向かないと言う風潮がありますが、それを言切ることも出来ません。その昔伝統派と、極真空手に関係なく空手だけを鍛練して来た各派(伝統派を含む)の選手達が、実戦に必要な技術を修得した後キックボクシングに挑戦しトップレベルで通用したのは何であったのか。と言う事です。なおスポーツ化された筈の講道館柔道の選手が異種格闘技の場で堂々と現在活躍出来るのは何故でしょう。その答は、鞘に納めた真剣に等しい武術家の美学です。彼の、講道館柔道の高弟前田光世氏(コンデ.コマ)が南米でこの世を去った臨終の日、奥さんに枕もとへ柔道着を持って来させたと言う逸話が残っております。武道家は道衣を着れば精気が湧くことを知っているからです。それが精神美学です。

とは言え精神性だけで勝てるほどプロ格闘技は甘いものではありません。その過酷さは凄まじく、史上最強と言われたあのタイソンも、挑戦者がリング内を逃げ回るほどに強かったフォアマンも、更には空手界からのアンディーやフィリョも戦い続ければ何時かは倒れて行くのがプロ格闘技の真理でもあるのです。その真理をしっかりと見据えた上ファンタジーの世界に誘われることもなく、それぞれが信じ、愛する道を歩むことこそ志(目的とする夢)ではないでしょうか。

人間何ごとも自分が信じ、愛するものに拠るのが一番です。我々が頼り、拠るところは自分の能力と、所属する武術体系(空手、柔道、全ての挌闘技)でなくてはなりません。胆力、気力を支える力はそれに拠って生まれるものなのです。それは極真会館の戦士達が大山総裁を信じて強くなって行ったのと同じ作用なのです。お国の為、家族の為と言う意義で人間は死んで行く事すら出来る動物なのです。

以上が現在、僕が信じる武道の意義と思想です。総じてそれを“武道は精神美学”とさせて頂きました。
塾長 成嶋弘毅 





 
(C)Copyright yoin-juku All rights reserved.
葉隠流 宗家葉隠塾  空手道 葉隠塾