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『武士道の根源 身分制度と武家階級』

武士道と聞くと皆さんは何を想像し感じるでしょうか。
勇ましい男の生き方とか、日本の伝統である男達の生き方とかだと推測します。
そこで今回は武士道の生まれた環境と、如何に育ったかを振り返って見たいと思います。

日本の封建時代に国民には士.農.工.商.と言う階級が与えられていました。
特に士.農.は家柄と出自が絶対的なものとして問われ、言ってみれば封建時代には生まれながらにして人生が定められていたとも言えます。それが鎌倉時代(1333年 ”元弘3”)より明治維新(1867年”慶應3”)まで続きました。

特に武家とは、国家(天皇を含む)、主君へ武を持って仕える(勤める)人を指します。侍=さむらい、武士=ぶし、武士=もののふ、と表現は異なっても同じ職業です。武家とは上にあげたように『雲の上人=宮中の人』以外の人間の中で最上位の位だったのです。従ってその生活規律は凄まじいものがありました。
常に心身を武装し、いついかなるときも個人の都合などは度外視され、下りてくるミッションに服従が必至だったのです。勿論それは家族にも当てはめられ、抗う余地は与えられませんでした。武家とは特権階級であるのと同時に、見方に寄れば”奴隷”に等しい身分に取れなくもありません。何故ならば、極端な例を上げますと”死ね”と主君から言渡されれれば即刻死ななければならなかったし、武家の持つ特権の代償として極限の戒律が課されていたのです。”位高くして責重”しと言うことです。身分を楯 に行う特権の乱用を防ぐ処置が取られていた訳です。武家の約束事を上げてゆけばきりがないのですが、ここでは物語を一例に説明したいと思います。

武士や武士道を主題にした物語は数え切れないほどの数にのぼります。どれをとっても立派にその社会と風習の表現がなされています。その中より”忠臣蔵”を選んでみました。

             “忠臣蔵”

主君、浅野内匠頭がある経緯から上役の吉良上野介といさかいをおこし、結果切りかかり、傷付けたことにより切腹を言い渡されこの世を去ります。武士は否応なしに上からの命令に従わなければならません。今の時代で言えば裁判も受けずに死刑の宣告を受け、即座に執行されたわけですからたまったものではありません。しかしそれが武士の掟である以上、覚悟の上なのです。されど、その処置を潔よしとしない家臣が集まり仇討ちが計画されます。主君の無念を晴らす目的であればそれ相応の”義”が問われます。ただ口惜しいからと相手を討てば意地による殺人で終わり、仇討ちであれば家臣の立派な正義となるわけです。その当時武家社会では侍同士の喧嘩は両成敗と言う掟がありました。しかし浅野内匠頭の犯した行為は喧嘩ではなく一方的暴力とみなされ片方だけが罰っせられたのです。物語では吉良上野介が一方的に悪人であり浅野内匠頭はただ真面目一途な殿様で吉良の悪意に満ちた行為にたまらず抜刀し、切りつけ傷を負わせ、その責めを受けての切腹となっておりますが、幕府の裁決が立場を弁えない個人的意趣で行われた行為、となっている以上仇討ちの大儀は認められません。しかしながら主君の無念を晴らすことこそ家臣の義であり武士の本分と信じた者達は仇討ちに向かったのです。家臣の中には下は今で言う成人式前の少年から上は還暦をこえた老人を含む50人に足りない者達でした。その家臣の中には禄(給料)を失い、食べることもままならない者も、年老いた両親がいたり、まだ幼い子供のいた者もおりました。さらに、仇討ちを果たせばその後に待っているのは処刑であることを知りつつも家臣の義を果たすことこそ武士道であり武士の本分と信じ、仇討ちに向かったのです。ことが成就し主君の墓前に仇吉良上野介の首をそなえ報告を終えたあと、全員が処刑を待つべく各々の屋敷に預けられました。その間その家臣達から聞き取ったエピソードがもととなり忠臣蔵が出来上がったのです。結局幕府の下した結論は、人の屋敷に大人数で切り込み人の命を奪ったことは大罪であり、その行為の原因が如何なるも許し難し。となり全員が切腹と決まりました。老いた者も若き者もそのさばきを潔く受け、逝ったと言います。忠義一筋の家臣の行為には胸打たれます。いくら小藩とは言え家臣団が50人以下と言うはずはなく、多くはその仇討ちに加わらなかったのですが、その言い訳は仇討ちではなく、単なる意趣返であり義に叶なった行為とは認められない。と言うものです。それもまた侍の面倒臭い掟なのでしょう。しかし、仇討ちを果たした者達の偏に忠義の道に突き進んで行った美しさは後世に残る美談となりました。

この物語にはそれこそ様々なエピソードがあります。まず、事件の知らせを受けた浅野の家臣は即主君への目通りを願い出ますが叶えられず、庭越しに交わす限られた時間に家臣から浅野の殿様へ詩を読みました:ー

  散る花に 心残さで逝く君に
いざ言問わむ 今日の名残りを

◎(散り逝く花に、なにも託さず逝く貴方に、いま心に残る思いをお尋ねします)と云うメッセージで、それに対する返歌が:-

風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残りを いかにとやせん

◎(風に吹かれ散る花より以上に春を惜しむこの気持ちをどうすれば良いか)

私が思いますにはこれは後日作られた話しで、如何に我が侭な殿様でも家来に仇討ちを要求するようなことは武士の頭領としてあり得ない行いなのです。
その逆で己の短慮のため家臣が負うであろう様々な迷惑を詫び、その行く末を案じることこそが人の上に立つ者に課された義務であり責任ではないでしょうか。

この思いは別紙『武士道の精神規範』にも記しましたのでお読み下さい。

葉隠塾 塾長成嶋弘毅
2007年10月31日

 
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